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                                      2014.9.25
「柘榴坂の仇討」という映画が公開されている。
浅田次郎が2004年に発表した短編集「五郎治殿御始末」の一編の映画化である。万延元年(1860
年)3月桜田門外の変で大老の井伊直弼が殺害されたが、主君井伊直弼の近習でありながら、主君
を守り切れなかった彦根藩士志村金吾は切腹も許されず、主君の仇を討つよう藩命を受ける。井伊
を襲撃したのは水戸浪士17名と薩摩浪士1名の18名であり、襲撃時に斬られた者2名、自決し
た者4名、切腹したもの7名、行方不明のもの5名であった。

事件から13年の歳月が流れた明治6年(1873年)、仇討の機会を待って、時代が大きく変
わっても武士としての矜持を持ち敵を探し続ける金吾はようやく最後の水戸浪士を見つけるも仇討
禁止令が出されて仇討が出来なくなってしまう。これまで水戸浪士側から見た小説・映画は幾多も
あったが、彦根浪士からのものは殆ど無かった。安政の大獄を実施した井伊直弼に対する人気は皆
無であったからだろう。我が郷土の備中松山藩主板倉勝静もこれにより御役御免の処分を受けてい
る。常に歴史観は政権を取った立場から都合の良いものに変えられてしまうものであり、尊王攘夷
も勤王佐幕も両面から眺めなければならない事だろう。実際にこのような事があったかどうかは知
らない。
  
一方「遺恨あり」というこちらは明治13年(1880年)に実際に起きた仇討のTVドラマであ
る。こちらは吉村昭の短編小説集『敵討』所収の「最後の仇討」のTV化である。2011年にテ
レビ朝日で放送された。

これは日本最後の仇討で、「臼井六郎仇討事件」を描いたものである。筑前の秋月藩(福岡藩の支
藩)の執政臼井亘理は開明派だったが、旧主派の反感を買い、明治元年(1868年)国家老の命
を受けた干城隊の襲撃を受け、妻ともども残忍に殺害される。藩の裁定は干城隊の犯人を罰せず、
逆に臼井家を罰するという不条理なものであったため、亘理の息子臼井六郎は仇討の決意を固めて
父の仇の一瀬直久を探し求め上京する。ところが上記「柘榴坂の仇討」にもあるように、明治6年
に「復讐禁止令」が出され、廃刀令により帯刀も認められなくなった。武士は士族となって失業者
にならざるを得なかった。これ以降の仇討は謀殺罪とされ死罪と決まった。

上京して山岡鉄舟に剣術を習い、ようやく探し当てた一瀬直久を見事討ち果たす。ところが時は明
治13年で、「復讐禁止令」が出て7年も後の事であり、判決は死罪のところ、士族であるとを理
由に終身刑の判決となった。後に明治憲法発布の恩赦で10年の服役で保釈された。また母親を惨
殺した萩谷伝之進も、六郎の仇討に恐れおののいて半狂乱となって首吊り自殺してしまう。


写真は臼井六郎である。
  




明治14年9月22日の東京裁判所の判決書



臼井六郎 (wikipedia)

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